【エジプト】ヌビアの遺跡群 〜世界遺産条約発足のきっかけ〜
こんにちは、kpilglimです。
せっかくこれまで世界遺産について記事を書いたりしているのに、「世界遺産が世界遺産として保護されるようになったきっかけ」について触れてこなかったので、今回はそこに的を絞って書いてみようと思います。
世界遺産条約とは
まず、きっかけを話す前に世界遺産の保護についての取り決めがまとめられた世界遺産条約について簡単にまとめます。
人類は地球にとって掛け替えのない価値をもつ記念創造物や遺跡、自然環境などを、人類共通の遺産である「世界遺産」として保護し、次の世代へ確実に伝えてゆく世界的な取り組み
となっています。世界遺産を有する国だけでなく「人類共通の」というところがポイントだと思います。
エジプト・ヌビアの遺跡群
エジプトのヌビア地方には、たくさんの遺跡があります。
まずはアブ・シンベル神殿です。約3300年前、当時のファラオ(エジプトにおける君主、王の地位)であったラムセス2世によって建てられました。大神殿にはラムセス2世の像が4体も並んでいます。
向かって左から「青年期→壮年期」を表現しているようです。ただ、左から2番目の像は完成から数年後の地震で崩れ去ったと言われているようです。
こちらのアブ・シンベル神殿は、ある理由(次の章で述べます)で水没の危機に見舞われ、現在はもともとあった場所から200mほど離れた丘に建っています。
続いて、フィラエ島。岩がなく緑の多い美しい島「ナイルの真珠」として知られ、神聖な島として扱われています。
最も有名なものはイシス神殿(フィラエ神殿)でしょうか。
フィラエ島にあったイシス神殿ですが、現在はなんとアギルキア島という別の島に遺跡ごと移築されています。この理由もアブ・シンベル神殿と同じなので、次の章で述べることにしましょう。
アブ・シンベルからフィラエまでのヌビア地方の場所はこの辺りです。
ヌビア遺跡群水没の危機「アスワン・ハイ・ダムの建設」
さて、アブ・シンベル神殿やフィラエ島のイシス神殿などが水没の危機に見舞われることとなった理由は何でしょうか。
それがアスワン・ハイ・ダムの建設になります。1952年、エジプト・ナセル大統領が「国家の近代化と国民の生活向上のため」として建設計画を策定しました。
しかし、もしこれが現実となると、ダムより上に人造湖ができ、その場所に該当するヌビアの遺跡群は湖の底に水没してしまうのです。
ダムの建設は進める一方で、エジプト史に残すべき重要な遺跡群を救うために、ナセル大統領はユネスコに救済を依頼しました。
世界遺産条約発足のきっかけ「ヌビアの遺跡群救済キャンペーン」
こうしてユネスコは、経済開発と遺産保護の両立という難題に立ち向かうため、1960年から遺跡救済キャンペーンを開始しました。
1964年からは本格的な募金活動なども行われ、結果として遺跡群は守られたのです。
(実際は沈んでしまったものもあるようです。)
アブ・シンベル神殿は1964年から1968年にかけて、1000個以上のブロックに分けられて運ばれ、近くの丘で再構築されたようで、現代の技術には本当に驚きですね。
こうした一国の遺産を、約50ヶ国もの国々や民間団体、個人が協力して救済したことで、「人類共通の遺産」という理念が生まれ、のちの世界遺産条約の理念へと繋がっていったのです。
その他救済キャンペーン
この他にも、ユネスコは救済キャンペーンを行っています。
まとめ
今回は、世界遺産という考え方が誕生するきっかけとなったエジプト・ヌビア地方の遺跡群について話してきました。世界遺産を学ぶ身としては、いずれ訪れたい場所の一つです。エジプトといえば圧倒的にピラミッドというイメージですが、こういった直近の出来事が絡んでいる歴史もあることがみなさんに伝われば良いな〜と思います。
最後まで読んでくださりありがとうございました。
それでは^ - ^