【東北2つの世界遺産】その1. 平泉 〜奥州藤原氏が築いた100年〜
こんにちは、kpilglimです。
私自身が単に忙しいこととコロナ禍というのも相まって、なかなか遠出ができず寂しいな〜と思う毎日ですが、次に訪れる世界遺産としたらココというのを選んでみました。その理由の一つとしては今住んでいる仙台市内から最も近い世界遺産だからです。
ということで本日は、2011年に東北地方で初めて世界文化遺産に登録され、現在も東北唯一の文化遺産「平泉 –仏国土[浄土]を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群–」について、歴史も含めてまとめたいと思います。
(東北地方初の世界(自然)遺産は「白神山地」で1993年に登録されました。近々記事にする予定ですので、こちらもお楽しみに^ - ^)
平泉の歴史(平泉繁栄前〜奥州藤原氏滅亡)
まずは平泉が栄える前から、繁栄、衰退までの歴史を見ていきましょう。
前九年合戦(1051年〜1062年)
当時、岩手県の中南部(平泉の少し北の方)の奥六郡では安倍頼良が長をつとめ、勢力を奮っていました。しかし、朝廷へ払うべき貢租を滞納し始めた頼良。それに対して朝廷は1051年に陸奥守(むつのかみ: 朝廷から任命される官位)・藤原登任に懲罰の命を与えるのです。
しかし、安倍頼良はこの朝廷軍勢に勝ってしまうのです(鬼切部の戦い)。こうして藤原登任は更迭され、朝廷は新たな陸奥守・源頼義を任命しました。
ちょうどこの頃、天皇祖母の病気があり、その快癒祈願のために大赦(ある範囲の罪を赦す(ゆるす)こと)が行われ、なんと安倍頼良は貢租滞納の罪を許されちゃうんですね。
安倍頼良はこの件を受けて、陸奥守として陸奥に赴いた源頼義に敬意を払い、読みが「よりよし」と同音であることを遠慮したのか自身の名前を安倍頼時と改名しました。
一件落着と思われた最中、1056年に事件は起こりました。安倍頼時の息子・貞任が、源頼義一行を襲ったというのです。こうして結局、安倍氏と源頼義らは戦うことになったんですね。
結果としては、源頼義(朝廷側)が清原氏(当時、安倍氏が統治していた場所の西側を支配していた豪族)を味方につけ、安倍氏に勝利しました。安倍頼時・貞任親子は戦死し、頼時の娘の夫・藤原経清も殺されてしまいました。
しかし、その頼時の娘は経清との間にできていた7歳の子を連れて、隣の豪族・清原氏の1人武貞と再婚することで、生き延びたのです。
そしてこの奇跡的に生きていた7歳の子こそが、のちの平泉初代当主藤原清衡(きよひら)なのです!(この時点では清原武貞の子となるので、清原清衡。)
後三年合戦(1083年〜1087年)
さて、そろそろ落ち着くやろと思いきや、この清原氏の複雑な血縁環境もあって、清原氏で内紛が起こります。
そこで力をつけてきたのが清衡でした。なんと前九年合戦では敵だった陸奥守・源義家(頼義の息子)に頼り、ついには前の安倍氏領土どころか清原氏の領土も手にいれ、事実上、奥州の支配権を握ったのです。
こうして、清衡は実の父・藤原経清の姓を受け、藤原清衡と自称するのです。ここに奥州藤原氏誕生、ここから平泉の発展は急速に始まるのです!
初代 清衡「平和」(〜1128年)
平泉を拠点とすることにした清衡が、はじめに望んだことは「平和」でした。幾度にも及ぶ戦で倒れた人々を供養するため、中尊寺の建立を始めました。これについては「中尊寺建立供養願文」にしっかりと記されているため、清衡は平和を切に願っていたことが伺えます。
金色堂や二階大堂、池のある庭園など、実に20年もの時間をかけて中尊寺は完成されました。
(平泉散策ガイドマップより)
ちなみに、奥州で繁栄できた理由には、近くに良質な金山がたくさんあったことが挙げられます。中尊寺金色堂はもちろんで、少し時代は遡りますが奈良の東大寺にある大仏・盧舎那仏にもこの地方の金が献上されているらしいです。
二代 基衡「発展」(〜1157年)
二代目についたのは、基衡(もとひら)でした。一代 清衡が描いた仏教中心の平和な街づくりをより発展させていきました。ここで、浄土庭園で非常に有名である毛越寺(もうつうじ)を建てました。建物自体は2度の火災により焼失していますが、大泉が池を中心とする浄土庭園は当時のまま、今に伝わります。
(平泉散策ガイドマップより)
さて、浄土庭園と出てきましたが、みなさんパッと答えられるでしょうか。まず浄土についてですが、仏教において煩悩などが一切存在しない、悟りを開いた仏が住む場所のことを言います。そして、その浄土(もっと言えば阿弥陀様の極楽浄土)の世界を再現しようとした庭園が浄土庭園になります。
では、なぜ極楽浄土の世界を再現しようとしたのでしょうか。これを理解するには、末法思想というものを知る必要があります。末法思想とは、釈迦の入滅(死)から時間が経てば経つほど正しい教え(正法・像法)が廃れていき、やがて世界は混乱する(末法)という思想のことを言います。
その末法の始まりが釈迦の入滅後1500年(2000年説もあり)のときと言われていました。これが、まさに平安時代後期1052年にあたるのです。この混乱を避けるためというべきでしょうか、人々は極楽浄土に往生することを求め、極楽浄土を模した庭園「浄土庭園」が作られる時代になったのです。
毛越寺の他に、浄土庭園で象徴的なものと言えば、京都・宇治の平等院鳳凰堂でしょう。ちょうど末法元年にあたる1052年に建立されています。
三代 秀衡「支配」(〜1187年)
平泉が最も繁栄したのは、この三代 秀衡(ひでひら)のときだと言われています。毛越寺の完成に加えて、無量光院を建てました。こちらは京の都への憧れからか、平等院鳳凰堂をモデルにしているようです。なんとその規模は鳳凰堂よりも一回り大きかったらしいです。
一代 清衡と二代 基衡は、土地の豪族としての最高位「押領使(おうりょうし)」までなっていますが、三代 秀衡はさらにその上「鎮守府将軍」、さらにさらにその上「陸奥守」まで成り上がりました。
そう、陸奥守って、あの前九年合戦の話で出てきた陸奥守です。今で言えば東北6県の知事のトップ的役職に相当するらしく、本当に東北を支配した人物だと言えますね。
四代 泰衡「滅亡」(〜1189年)
さて、平泉も衰退の時がやってきました。その原因の一つとしては、源義経が絡んできます。のちの鎌倉幕府 初代征夷大将軍であり、兄である源頼朝に追われる身となっていた義経。古巣でもあった奥州藤原氏に逃げ込んでいたのですが、最終的に四代 泰衡は頼朝の圧力に耐えられず、義経を自害に追い込んだと言われています。
これを機に、頼朝は本格的に奥州藤原氏の滅亡を実行しました。こうして、およそ100年間の平泉文化は幕を閉じました。頼朝としては、自分以外の強力な勢力である奥州藤原氏は消しておきたかったんでしょうね。
世界遺産としての平泉
さて、ここまで平泉の歴史を話してきましたが、ようやく世界遺産としての平泉を紹介します。2011年6月、世界文化遺産として登録が決定しました。あくまで私の見解ですが、東日本大震災の復興を祈っての意味もあったのかなと個人的に思ったりします。
登録理由としては、やはりこの人間の世には存在しない理想の世界「極楽浄土」を表現した建築や庭園が美しく保存されており、他に類のない当時の状況が感じられることでしょう。
構成資産としては、以下の5つになっています。
- 中尊寺:藤原3代の遺体と4代 泰衡の首級が納められている。
- 毛越寺:国内最大の浄土庭園。
- 無量光院跡:平等院鳳凰堂を模した。西に金鶏山を臨む。
- 観自在王院跡:基衡の妻が建立。現在は浄土庭園が公園として残るのみ。
- 金鶏山:浄土庭園における空間表現・位置関係の中心的役割を果たす山。
松尾芭蕉「奥の細道」にも登場
奥州藤原氏が滅亡してから500年後の1689年、松尾芭蕉は奥の細道にて平泉に訪れています。この時、2つの句を詠みました。
夏草や
兵(つわもの)どもが
夢の跡
奥州藤原氏の栄華の跡は消えてしまい、ただ夏草が生い茂っている。という儚い句ですね。ここまでの歴史を学んでこの句を聞くと、すごく心に染みますね。
五月雨の
振り残してや
光堂(ひかりどう)
こちらは、中尊寺の金色堂について詠んだ句になります。五月雨によってあらゆるものが朽ち果てていくけれど、光堂(金色堂)だけはずっと美しいままだ。という句です。1つ目の句とはまるで対照的な句になっているように思いました。
まとめ
さて、大変長くなってしまいましたが、いかがでしたでしょうか。平泉について調査したこと、学んできたことを詳しめにまとめてみました。歴史に関してはかなりごちゃごちゃしていて難しかったと思います(まとめるのが下手くそですみません。。。)
今回の内容のなかで、やはり歴史に関しては非常に難しく、たくさんの資料(世界遺産検定2・3級テキスト、平泉ガイドマップ、平泉HP、KIDS ひらいずみの文化遺産、歴人マガジン)をもとに勉強したことを私なりに(分かりやすく?)まとめ直してみました。もしも、おかしな部分があれば指摘してくださるとありがたいです。
それでは、最後まで読んでくださりありがとうございました^ - ^